「ヨーガ・瞑想 from 香川」

ヨーガ・瞑想・占星術などを香川県丸亀市から発信❗️

ヨーガ・スートラの「基本原理」

 

ヨーガは本来、信仰でも哲学でも療法でも体操でもない。

パタンジャリはその著書『ヨーガ・スートラ』の中でこう定義した。

「ヨーガとは、心を止滅させる訓練である。」

分裂・矛盾・対立など、心は混乱を作り出す。

ヨーガの目的は、あなたから混乱を取り去ることである。

混乱を除去し、あなたが明晰(クリアー)になることが目標だ。

内側の世界は、しばしば大空に例えられる。

心は雲、意識(観照者)は青空。

覆っている雲のせいで、青空の全貌が見えない。

心がある限り、意識(観照者)はその本来の姿を現せずにいる。

この雲、この心を如何にして滅するか?

どうすれば、人は心無しで生きていられるか?

ヨーガはそれを追求していく。

禅宗にはこのような格言がある。

「学ぶ用意ができたら、師は現れる」と。

学ぶことができないのは、師がいないからではない。

まだあなたに学ぶ用意が出来ていないからだ。

あなたが深い苦悩と絶望の中にいない限り、

あなたは真摯に耳を傾けることができない。学ぶことができない。

 

①アビアーサ(意識的努力)

無意識なままでいることは、ある意味では楽だ。

何も負わない、何も感じない、何も考えない。

しかしあなたは成長しない。成熟しない。

離欲の段階に入る前に、人はまず意識的にならねばならない。

意識的でなければ、何も身に付かないからだ。

多くの挑戦と苦闘によって、人は更に意識的になっていく。

その努力は、あなた自身のための努力だ。

そしてより意識的になればなるほど、

あなたは多くの責任・孤独・不安・混乱・苦痛を感じるようになる。

自らの知性、感性、精神性の開花のために、

遅かれ早かれ、あなたは習慣や伝統と闘わねばならなくなる。

習慣や伝統によって条件付け(訓練)されてきたものは、

あなた本来のものではない。

習慣や伝統に盲従している人々は、それをあなたにも強制してくる。

彼らは犠牲者だ。そしてあなたを同じ目に遭わせるつもりだ。

意識的な人物は決してそのようなことはやらない。

意識的であるということは、そこに理解があるということだ。

その理解ゆえに、他人にも自由と自立(責任)を与えることができる。

盲従と強制は人を無意識にする。

盲目的、強制的に従っているようでは、それは意識的努力とは言えない。

②ヴァイラーギア(離欲)

離欲とは読んで字の如く、欲から離れることである。

欲を克服しようとすれば、あなたは必ず失敗する。

克とうとするのではなく、ただ離れる。これが離欲だ。

快楽は外側にあり、至福は内側にある。

内側を知らない限り、あなたは外側を追いかけ続ける。

そして快楽は内側を曇らせる。

快楽に耽ることであなたは大きく消耗し、老化を早めてしまう。

渇きは更に深刻となり、ますますあなたは内側から遠ざかっていく。

まさに快楽は毒だ。

この一連の理解がなければ、離欲は単なる抑圧となってしまう。

そこに意識と理解がなければ、深く染み込むことはない。

戒律(形式)への盲従や強制は、表面的かつ抑圧的な行為に過ぎない。

それは根本的な解決にならないどころか、逆に反動を招く。

まずはアビアーサ。それが出来たらヴァイラーギアへ進める。