ヨーガ・スートラの「基本原理」
ヨーガは本来、信仰でも哲学でも療法でも体操でもない。
パタンジャリはその著書『ヨーガ・スートラ』の中でこう定義した。
「ヨーガとは、心を止滅させる訓練である。」
分裂・矛盾・対立など、心は混乱を作り出す。
ヨーガの目的は、あなたから混乱を取り去ることである。
混乱を除去し、あなたが明晰(クリアー)になることが目標だ。
内側の世界は、しばしば大空に例えられる。
心は雲、意識(観照者)は青空。
覆っている雲のせいで、青空の全貌が見えない。
心がある限り、意識(観照者)はその本来の姿を現せずにいる。
この雲、この心を如何にして滅するか?
どうすれば、人は心無しで生きていられるか?
ヨーガはそれを追求していく。
禅宗にはこのような格言がある。
「学ぶ用意ができたら、師は現れる」と。
学ぶことができないのは、師がいないからではない。
まだあなたに学ぶ用意が出来ていないからだ。
あなたが深い苦悩と絶望の中にいない限り、
あなたは真摯に耳を傾けることができない。学ぶことができない。
①アビアーサ(意識的努力)
無意識なままでいることは、ある意味では楽だ。
何も負わない、何も感じない、何も考えない。
しかしあなたは成長しない。成熟しない。
離欲の段階に入る前に、人はまず意識的にならねばならない。
意識的でなければ、何も身に付かないからだ。
多くの挑戦と苦闘によって、人は更に意識的になっていく。
その努力は、あなた自身のための努力だ。
そしてより意識的になればなるほど、
あなたは多くの責任・孤独・不安・混乱・苦痛を感じるようになる。
自らの知性、感性、精神性の開花のために、
遅かれ早かれ、あなたは習慣や伝統と闘わねばならなくなる。
習慣や伝統によって条件付け(訓練)されてきたものは、
あなた本来のものではない。
習慣や伝統に盲従している人々は、それをあなたにも強制してくる。
彼らは犠牲者だ。そしてあなたを同じ目に遭わせるつもりだ。
意識的な人物は決してそのようなことはやらない。
意識的であるということは、そこに理解があるということだ。
その理解ゆえに、他人にも自由と自立(責任)を与えることができる。
盲従と強制は人を無意識にする。
盲目的、強制的に従っているようでは、それは意識的努力とは言えない。
②ヴァイラーギア(離欲)
離欲とは読んで字の如く、欲から離れることである。
欲を克服しようとすれば、あなたは必ず失敗する。
克とうとするのではなく、ただ離れる。これが離欲だ。
快楽は外側にあり、至福は内側にある。
内側を知らない限り、あなたは外側を追いかけ続ける。
そして快楽は内側を曇らせる。
快楽に耽ることであなたは大きく消耗し、老化を早めてしまう。
渇きは更に深刻となり、ますますあなたは内側から遠ざかっていく。
まさに快楽は毒だ。
この一連の理解がなければ、離欲は単なる抑圧となってしまう。
そこに意識と理解がなければ、深く染み込むことはない。
戒律(形式)への盲従や強制は、表面的かつ抑圧的な行為に過ぎない。
それは根本的な解決にならないどころか、逆に反動を招く。
まずはアビアーサ。それが出来たらヴァイラーギアへ進める。