「ヨーガ・瞑想 from 香川」

ヨーガ・瞑想・占星術などを香川県丸亀市から発信❗️

2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧

静寂が深まるほど、混乱が生じる。 心は常に連続的かつ論理的だ。 静寂にチャンネルが合うようになるほど、 表現することは虚しく感じる。

深遠なものは決して表現し得ない。 詩は決して論理的にならない。 論理的な詩は死んでいる。詩とは言えない。

瞑想ほど、非論理的かつ不条理なものはない。 論理的な思考や態度は、瞑想に通用しない。

内側は信頼の世界。 頭が良いか悪いかは関係ない。 理解できるかどうかはそれほど関係ない。

言語と政治は、家庭と社会の中にしか存在しない。 本来、個人とは無縁なものだ。 言語や政治は外側だ。それを内側に持ち込むな。

静寂は気付きであり、目覚めである。 内なる静寂が深まるほど、人はますます気付いているようになる。 より思慮深く、より明晰になっていく。

精神世界は体系化できない。 宗教を科学することはできない。 探求の末、多くの混乱が生まれるのは避けられない。 何というジレンマだ...。

教える内容が高度になるほど、 教えることは困難だ。 学ぶ側のアプローチ次第になってしまう。

知られるものはすべて心である。

心がある限り、混乱は続く。 心こそが混乱なのだ。 混乱が深くなればなるほど、心はますます止滅に近づいていく。

内側へ入るほど、 コミュニケーションはますます困難なものとなる。

静寂は論理ではない。知的なものではない。 だから静寂を学ぶこと、理解することはできない。 そういう意味では、静寂は技能だと言える。 技術ではなく技能。 職人技のように、経験と慣れによって獲得されるものだ。

意識的になればなるほど、人は孤独になっていく。

説明し得ないものに対しては、 あなたは信頼することしかできない。 精神世界ではこれが問題となる。 師を信頼することは大変難しいことだ。 信頼関係は容易に生まれる関係ではない。 その段階に至るまでに、多くの試練を越えなければならない。 これが本当…

暗愚な子供を対象にしなければ、 教育というシステムは成立しない。

五感は外界を知覚するための機能だ。 そこに精神性はない。 感覚を通して知られることはすべて、真実ではない。 それによって他人や世界を知覚することはできても、 あなた自身に至ることはできないからだ。 真の自己へ至るためには、感覚を超えた何かが必要…

ヨーガにおける第三の眼とは、内なる眼だ。 それは外界を見るための機能ではなく、 内観のため、つまり自らの思考を見るための眼なのだ。 だからそれは第三の眼と呼ばれてきた。 既に付いている二つの眼では、物質を見ることしかできない。 そこに精神性はな…

説明書.....それはこの世で最も退屈な読み物だ。 最もメッセージ性のない書き方で書かれた、まさに最悪の見本だ。 誰からも敬遠される書類の代表格だ。

知識を詰め込むほど、人は盲になる。 聡明という字の明は、"よく見える"という意味だ。 それは、"よく知っている"という意味ではない。

知識は信仰に基づく。 知識を詰め込めば詰め込むほど、視野が狭くなる。 知恵は洞察に基づく。 知恵が増えれば増えるほど、視野は広くなる。

心は知ることができる。 無心は見ることができる。

真実とは見るものであって、知るものではない。 知られることはすべて、真ではない。

盲目であれば、他人を見ることはできない。 しかし、自己を見ることならできる。 自らの思考・感覚を見守ることに関しては、 むしろ盲目な人の方が長じているケースが多い。 見えないからといって、瞑想には全く支障はない。

知ることに限界はない。 しかし、教えられることには限界がある。 この世には、説明できないことの方が圧倒的に多い。

日本は経済的・社会的に豊かになったが、 精神的・文化的には貧しくなってしまった。

商売はとても現場的。そして流動的。 商売は学問にはなり得ない。 本質化はできても、理論化はできない。

リアリティーは、決して理論化できない。 現実ほどイレギュラーで不条理なものはない。 理論化・学問化しすぎると、真実を損なう。

男性の気質には2つのタイプがある。 一つ目のタイプは「将軍気質」だ。 陰陽で言えば陽。 明快でわかりやすく、自ら先頭に立って皆を引っ張る。独裁的。 歴史上の人物で言えば、 楚の項羽、魏の曹操、平清盛、織田信長のようなタイプ。 二つ目のタイプは「…

人は同質なものを理解することができる。 人は異質なものを学ぶことができる。 理解できる対象から学べる可能性はない! 理解できないからこそ、学ぶんだ! 学ぶ以外の選択肢がないからだ。

別れは卒業だ。 悲しむな。それは祝うべきだ。