「ヨーガ・瞑想 from 香川」

ヨーガ・瞑想・占星術などを香川県丸亀市から発信❗️

2019-01-01から1年間の記事一覧

対人折衝に於いて、 直球・直線は最悪の一手。 やるとしても最終手段。

独自の資源、特別の素材を占有していることが、 実社会の中で揺らがぬ影響を持つ。

心と真実と

真実に至る唯一の道は、 自分の眼でどうやってじかに見るのか、 心(マインド) の助けをどうやって落とすのかを学ぶことだ。 心のこの仲介が問題なのだ。 心には夢を生み出すことしかできないからだ……。 あなたの興奮を通して、その夢が現実のように見えてく…

宗教性の原則

Somebody(誰か)、Something(何か)が、 物質・世俗・外面・客体・自我である。 Nobody(誰でもない)、Nothing(何でもない)が、 精霊・神聖・内奥・主体・真我である。 物質・世俗・外面・客体・自我は見られることはできても、 見ることができない。 精霊・神…

資金力と知識力と

資金力と知識力こそ、 中国人とユダヤ人の最大の武器である。 商業と学業の分野で、 彼らに勝ることは難しい。 何故なら、それらは彼ら古来の土俵だからだ。

アイデンティティー の不在こそ、真の実在

アイデンティティー の不在こそ、 真の実在の条件である。 いつでもなく、どこでもなく、 誰でもなく、何でもない。 真のあなたは、その中に在る。

「ヤンキー、エリート、オタク」のどれかに 該当する人にならなければ、 これからの社会で居場所を持つことは非常に難しいように思える。

国と国の対話・理解の過程は、 人と人の対話・理解の過程に非常に相似である。 国の問題の前に、まず人の問題をどうにかできねばならない。 人を巧みに扱えて、そうして初めて国を巧みに扱うことができるのだ。

偶然と必然の大原則

人間に与えられた自由とは、 「選択の自由」ではなく、 「偶発の自由」である。 この点を履き違えている人は、総じて運が悪い。 偶然とは「必然の皆無」であり、 必然とは「偶然の皆無」である。 必然の可能性を除去して行くと、 偶然の可能性は高まり、 偶…

物としての生、霊としての生

物的な素質か? 霊的な素質か? 物の時代は霊的に貧しく、 霊の時代は物的に貧しい。 物は『表・明・葉・花・派・浅・動・浮・幅・有・赤・我』がキーワード。 霊は『裏・暗・根・種・源・深・止・沈・奥・無・青・神』がキーワード。

政治経済は『欲望』だけで回っていく。 相変わらず、人は金に振り回され続けていく。

鳥は空を離れず、魚は水を離れず、 樹は土を離れず、人は世を離れず。

リッチマンへの四道 ①金を働かせる ②人を働かせる ③物を働かせる ④頭を働かせる

社会と、個人と

職業、信用、会社、政治は社会的な要素であり、 趣味、信頼、家庭、宗教は個人的な要素である。

神は対象も、目的も、重心も持たない。

この世のすべてが『御神体』である。 万物万象が神そのものだ。

権力、財力、能力のどれかに走るのが、 人間の我欲である。

商売と労働に関して、根本となる四戦略。 ①マッチング&ポジショニング ②マーケティング&ブランディング

ゴールしたければ、まず先にスタートを探せ。

空っぽの道と、充ちる道と

『無』と『全』は、まったく同じことである。 『空』と『充』も、また同じく。

『中道』

仏陀が唱えた『中道』は、 それは最も価値が無く、そして同時に最も価値がある状態である。

文明が進歩すればするほど、 人間はますます『自然性』への帰巣本能を刺激されることだろう。 『文化性』を追求し過ぎると、 反って『自然性』に過剰な価値がついてしまう。

価値の原則

『価値』や『立場』というものは、 一定の中における『差異性』や『反対性』によって生じる。 昔のこと、世のことの反対をやれば、 そこに『価値』と『用途』が生じてくるのだ。

記憶と想像をどう無効化するか? これが瞑想法の努力の方向性である。 『自らの心からどう自由になるか?』を探求しよう。

アイデンティティー有ってのコミュニケーション。 コミュニケーション上手になりたければ、 まずはアイデンティティーを上手に作れ。 それができれば、 あとはポジショニングとマッチングを修練すればいい。 そうやって、対人関係がうまく行くようになってい…

持てる物心、持てる覚識には限界がある。 限度を弁えることが、より良い生への第一歩である。

危険を好み、失敗を誇る。 そういう人物は稀だ。 だが、そういう資質を持つ者こそ、 やがては大物となる。

Just Being no Feeling , no Thinking , no Questing Only Being

社会の本質

すべての関係は束縛であり、 社会はまさに監獄そのものである。

人が不信に陥るのは、 他人がいるからであり、 社会があるからである。